子どもは挨拶できなくてもいい

毎朝小学校の校門前に立っています。

毎朝、900人の子どもに「おはよう」と言います。

「おはよう」と返してくれる子は300人、3割くらいです。

 

それでいいと思ってます。

登校中の子は登校するので忙しいし、同じ登校班の誰か一人が挨拶したら、それが代表みたいになってあえて挨拶しないこともあります。

同じ子でも挨拶する日としない日があったりする。

 

子どもにも子どもの事情があるので、挨拶が返ってこないことは気になりません。

挨拶できる「子ども」である必要はないんです。

挨拶できる「大人」にいつかなってくれればそれでいい。

 

自分も挨拶できない子どもでした。

でもその子どもが大人になって、こうやって挨拶している。

子どもは育っている途中です。いつか必ず挨拶(とまではいかなくても会釈くらいは)できるようになります。

自分の親の子育てを振り返ってみると

母の日のプレゼントを選びながら、子ども時代を思い返していました。

自分が親になってから振り返ると、決して理想的ではなかったけど、悪いものではなかったと思います。

自分の両親の子育ては。

 

母にはたくさん世話をしてもらいましたし、父は外で稼いでくれました。

母にはいろいろ理不尽に怒られましたし、父とはほとんど遊んでもらったことがありません。

でもそれもこれも飲み込んで、今自分は大人になっています。

 

両親の子育ては成功した。

その証明の一つが、息子もなんとか大人になってなんとか生活していること。

必要なのは完璧な子育てじゃなくて、普通の子育てです。

 

自分の子育てに不安になったら、自分の親の子育てを思い出してみるのもいい。

そうすれば自信がでるかもしれないし、あきらめがつくかもしれない。

母の日と父の日の間に。

5/6(月祝) ライフデザイン講義 滋賀県立大学

滋賀県立大学のライフデザインの授業で、ゲストスピーカーをさせていただきました。

毎回、様々な人生経験を持つゲストが自身の人生を振り返った気づきを伝えるこの講義、

私は主に主夫を選んだ経緯からその後のキャリアについてお話ししました。

講義の後も数人の学生さんと残って立ち話。

同じ話を聞いても、男性女性、生まれ育った環境によって気づきの部分が全然違うのが面白い。

高齢者と幼児

地元の高齢者サロンでマジックショーをしました。

高齢者の皆さんは本当に素直にマジックを楽しんでくださいます。

それは初めてマジックを見た幼児と同くらい。

 

小学生から大人まで、マジックを100パーセント素直に楽しめる人は少ないです。

それはマジックという芸の特殊性。

秘密を抱えたまま人を楽しませようとする無茶な芸だからです。

 

でも幼児と高齢者は100パーセント素直にマジックを楽しんでくださる。

小児科病棟に勤務している看護師の妻も言ってました。

「幼児と高齢者は一緒や。同じ話何回しても飽きひん」

 

そうなんです。孫が何度同じ絵本をせがんでも、飽きずに読み聞かせしてやれるのは親じゃなくて祖父母。

産業革命前は、親世代が畑仕事をしている間に、祖父母が乳幼児を見ていました。

祖父母と乳幼児の感性は似ている。本来は祖父母が子育てをするのが自然なのかもしれません。

 

現代の核家族での子育てはもともと無茶なことをしようとしている。

そう思えば、ちょっとあきらめがつくかもしれません。

大丈夫、それでも子どもは「普通に」育ちますから。

大津の事故を受けて大人ができること

まず大前提として、あの事故はとってもレアなケースであるということ。

我が子があのような事故に遭う確率はとても低いということだ。

だからといって、あのような事故があっていいわけはない。

 

子どもが外を歩く、それだけで一定のリスクはある。

保育士さんたちは、子どもの安全に最大限の配慮をしている。

保育園の子どもたちは、ちゃんと保育士さんの指示に従って安全に歩いていたはずだ。

 

それでも事故は起こってしまった。

だからといって、子どもの外歩きをやめてしまったら、子どもは楽しく無くなるし、成長の機会を奪われる。

恐れすぎず、でも最大限の配慮をして、外を歩ける環境を担保してやりたい。

 

責任者は誰だ、という声もある。

責任者は日本の大人全員だ。全員に一億分の一の責任がある。と、僕は考えている。

とりとめないけど、今日はこれで。