「歩きスマホくらい大目に見てよ?」人を簡単にジャッジしないために

フェイスブックでシェアされた「私がしていること、あなたが見た部分」を見て考え込んでしまった。
上半分の「私がしていること」の部分に全く異論はない。
中央からすこし右上よりのトイレの状況は、男性として主夫をしていた僕にも全く同じことがあった。

考え込んでしまったのは下半分の「あなたが見た部分」だ。
歩きスマホをしながらベビーカーを押している光景。
これをどう捉えるか。

フラットに見れば、
「歩きスマホをしながらベビーカーを押している私は他にもたくさんのことをしている」
ということになる。

でも少しうがった見方をされれば、
「これだけ子育てを頑張っているんだから、歩きスマホくらい大目に見てよ」
と受け取られないだろうか。

実際、こう捉えたコメントを見たので、僕は考え込んでしまったのだ。
「それでも歩きスマホはだめでしょ」と。
下半分の歩きスマホベビーカーが、どんなイラストなら良かったのか。

たとえば歩いていなければ問題はずいぶん少ないと思う。
ベビーカーの横でベンチに座ってスマホを見ているのであれば。
でも、もしそうだったら、このイラストの力やメッセージ性はものすごく弱い。

子育てを頑張っているママが、歩きスマホベビーカーという「ちょっと非常識」なことをしているから、このイラストは力を持っている。
子育て頑張っていたら、こんなことも時にはしてしまい、それをあなたに見られることもある。
以上。

そこに「それでも歩きスマホはだめでしょ」というジャッジを加えるのは無粋な気がする。
映画の中でも人殺しはダメでしょみたいな。
そう、これはイラストなのであって、現実のひとりのママが「歩きスマホくらい大目に見てよ」と言ってるわけではない。

僕はこのイラストから強いメッセージを受け取った。
それはこのイラストに描かれているひとりのママのことじゃなくて、全ての人に当てはまること。
人の行動のごく一部を見ただけで、わかったつもりになってはいけない。

 

 

 

子どもと長く関わるための読み聞かせ〜絵本からラノベへ〜

「あのな、キューバットの世界にはな…」
小六次女が読んでいるラノベの内容を熱烈に説明してくれた。そして「パパも読んで!」
まさか、娘から読書を勧められるとは思わなかった。

長女次女を通して10年間、ほぼ毎晩絵本の読み聞かせをしていた。
まずは長女がパパの読み聞かせを卒業し、そして次女も卒業して5年経つ。
次女の卒業にはとてもわかりやすい経過がある。ある一冊の絵本を通した経過だ。

次女がハマった絵本『100かいだてのいえ』シリーズ。
男の子が100階建ての家を探検しに行く。その家は10階ごとに違う動物が住んでいる。
すごいのはこの設定がすべて絵になっていること。

絵本やから当たり前?と思うならこの絵本を開いてしっかりと見てみればいい。
100階の部屋が全て書いてあり、全ての部屋の中で何かが起こっている。
ご丁寧なことに、次の回に上がる階段も一段一段全て書いてある。

見開きに10階分×10ページ。文字は見開きごとに10行ずつだけ。
大人のペースで文字を音読していくと、どんだけゆっくり読んでも1見開き30秒で通過する。
しかし、次女は違う。ハマった当時3歳の次女は字が読めない。絵を見ている。

次女は100階建ての家を本当に探検する。
人差し指と中指の2本で、丁寧に描かれている階段を一段づつ登るのだ。
そして1階ごとに部屋の中で起こっていることをじくり観察する。

そうして確認していくと、どんだけ早く観察しても1見開きに2分はかかる。
1見開き2分でも10見開きだと20分だ。寝かしつけのベッドに、娘がこの絵本をもってきたときは地獄だった。
そして続編が出た。『ちか100だてのいえ』。女の子が地下100階建ての家を探検する絵本だ。

次女は読み聞かせにシリーズ2冊を持ってくるようになった。
100階登って、100階降る。最盛期は40分、次女の探検に付き合った。1冊だった頃が天国に感じるくらいの地獄。
そして、さらに続編が出た。心からやめてくれ!と思った。

僕が生まれて初めて出すのをやめてくれ!と思った絵本のタイトルは『うみの100かいだてのいえ』。
60分コースを覚悟した。でも、その覚悟は必要なかった。
3作目がでたとき、次女は小学1年生にあがっていた。買ってもらった3冊を次女は1人で楽しむようになっていたのだ。

こうして、パパの読み聞かせはフェードアウトした。
数年ぶりに次女から読んでと言われた本。読み聞かせをするわけじゃない。
だけれども同じ物語を一緒に楽しむという意味では読み聞かせとおんなじだ。

魔法少女もののラノベ…しかも結構分厚い全3巻…うーむ…
いっちょう読んで、次女の世界に入ってみましょう。
読み聞かせのはるか延長に、こんな子どもとの関わり方があるとは。

自分の子育てを後悔するなら、自分の育ちを肯定しよう

「30年前に聞いときたかったわ」
祖父母講座の参加者からよく聞く言葉だ。
孫との遊び方や遊びのメリットをお伝えする講座を受講してくださった祖父母世代の方々。

必ず我が子の子育ての時に知っていればとの、後悔半分みたいな感想をくださる。
「聞いといたらもっとええ子育てができたのに」
ご心配なく、とお答えする。皆さんの子育ては決して失敗ではありません。

今皆さんに孫がいらっしゃるということが、皆さんの子育てが成功した証明です。
子どもはいなくても社会に様々な形で貢献している大人はたくさんいて、それを否定するわけではありません。
だけれども、新時代の子どもを育むということも大人の役割の一つです。

我が子がそれをしているということは、我が子が大人になったことの証明の一つ。
子どもを大人にすることが子育ての目的なら、皆さんの子育ては成功している。
だから自身の子育てを後悔はしていただきたくないんです。

そもそも子育てに成功だの失敗だのという言葉を使うこと自体が僕は嫌です。
でもあまりにも自分の子育てを後悔される方が多いので、あえてここに書いておきます。
みなさんそこそこ子育てをして、そこそこ成功されました。

僕も皆さんも理想的な子育てなんてされてきていません。
時には親からひどいことを言われたりされたりしたかもしれない。
ここには書きませんが、僕自身もそんなネタはいっぱいあります。

それでも今、それを話のネタにできるくらい、自分の中に取り込んで大人に成長しました。
つまり、自分の親の子育ては成功してるんです。
だからといって虐待を肯定しているわけではありませんよ。それを避けるために色々な支援や施設や子育て講座がある。

時には間違ったことをしてしまうかもしれない。
だけれども子育ての目的は子どもを大人にすること。そして大人になったら大人自身の責任です。
自分で責任を取れる大人を増やすために、僕は家事育児や子育て講座をしています。

挨拶の声をビームにすれば返事が返ってくる

朝、時間のある日は校門に立っている。

登校してくる子どもたちに挨拶をするためだ。

そしてもう一つ、自分の1日を気持ちよく始めるため。

 

4年前にPTA会長を務めてからの習慣だ。

あいさつを継続していて気づいたことがある。

返事をする子どもが多い日と少ない日があること。

 

理由は2つ。子どものコンディションと自分のコンディションだ。

子どものコンディションについては仕方がない。

たとえば運動会の予行演習の翌日などは疲れているから返事が少ない。

 

新学期はじまったばかりの時も、挨拶に慣れていなくて返事は少ない。

これは自分もおんなじで、定期的に挨拶をしておかないと挨拶の仕方を忘れる。

特に年明け、3学期の最初は寒さに年越しの疲れが重なって、お互いにとっても挨拶が重い。

 

それでも自分のコンディションは調整できる面もある。

特に声の出し方。声の大きさではなくて出し方だ。

疲れていても子供に挨拶するときはある程度の大きさの声は出す。

 

しかし、疲れている時の挨拶の声はちょっと高めに空中に出してしまう。

「おはようございます~↑」

子どもにじゃなくって、空中に挨拶するのだ。

 

これでは子どもが返事するわけがない。

自分のコンディションがいいときは、低めの声で子どもに当てるように声を出す。

「おはようございます↓」

 

挨拶を当てられた子どもは、はっとこっちを見て挨拶もしくは会釈を返してくれる。

ターゲットは明確に。言葉を空中にバラまいても仕方がない。

これはリアルの挨拶もネットでの言説もおんなじだ。

【活動報告】香川県高松市で親子遊び! 11/3(日)

高松市でパパ講座がありました。

マジックパパはパパ講座の裏、パパたちが講座を受けている間のママと子どものお楽しみ時間に読んでいただきました。

1歳から10歳の幅広い世代の子どもとそのママたちと90分間、いろいろな遊びをしました。

ラスト20分はパパも合流してもらって、新聞遊びをワイルドに!

熱心な高松市のパパたちでした♪